石平の天安門事件

石平「私はなぜ中国を捨てたのか」(ワック)54〜56頁


(私が神戸大学)大学院に入ったのは(1989年の)4月であったが、ちょうど指導教官のゼミが始まったその日の4月15日に衝撃のニュースが祖国から伝わった。

民主化運動に理解を示した胡耀邦前総書記の死去である。

そして、彼の死をきっかけに、いったんは低調になった国内の民主化運動が一気に蘇って爆発しそうな勢いとなった。

国内の動向はすぐさま、電話や手紙など多くのルートを通じて、詳しく伝わってきた。北京の仲間たちから、「今度こそ、いっせいに立ち上がって長年の夢を実現するぞ。一緒にがんばれよ」と檄文が寄せられた。私も当然、座ってはいられない。すぐさま行動にしなければならないと思った。

最愛、神戸大や同じ近畿地方の大阪大、京都大にも、同じ理想と志を持つ中国人留学生の仲間が多くした。しかもそのほとんどは、自分と同じように、80年代前半に中国国内の大学に入って、民主化運動に参加した物である。話は早い。圧倒今に、京阪神横断の連帯組織ができあがり、外国の日本において、国内の民主化運動と呼応しながら、その一翼を担う活動を開始した。

特に1989年の春のことである。80年代を通して展開して生きた私たちの民主化運動は、いよいよ。、そのクライマックスを迎えようとしていた。そして、それはまた、「血の日曜日」として世界を震撼させた、あの悲惨な「天安門事件」の前夜であった。

そして、1989年6月4日、あの運命の日がやってきた。

この日に、歓喜と希望のクライマックスに達した直後に、私たちは地獄を見た。私たちの理想と情熱と夢は、多くの同志たちの骨肉とともに、人民解放軍の戦車の下敷きになて、粉々に踏みにじられたのである。

この事件の前後のことについて、その時の自分の体験と思いについて、私はもはや、ここで語る気がしない。おそらく一生、それを公の場で語ることは絶対にないと思う。

あの日に、訒小平の兇弾に倒れて、若い生命と青春の夢を無残に奪われたのは、自分たちの同志であり、自分たちの仲間なのだ。後で知ったことだが、自分がかつて一緒に飲んで、一緒に語り合ったことのある仲間の数名が、その犠牲者のリストに含まれていた

彼らはかつて、私の目の前に座って、私に向かって夢と理想を語り、私に青春の笑顔の明るさと、男同士の握手の力強さを感じさせた。彼らは確かに生きて、存在していた。

そしてあの日突然、彼らは殺された

彼らは死んだ! 何の罪もないのに、素晴らしい理想に燃えていたのに、祖国への熱い思いを胸一杯に抱いていたのに、彼らは殺されたのである。

私は今でも、彼らの名前も、出身地も、当時の学年も、所属学科も、全部はっきりと覚えている。しかし、唯一、彼らの顔はどうしても思い出せないどう頑張っても、思い出せないのである

おそらく、私の無意識の中の自己が、それを思い出させないのだ。彼らの顔に向き合うと、自分の精神が持たなくなるからだろう。

それは私という人間が永遠に自分自身の精神の一番奥に閉じ込めておくべき、悔恨の記憶である。死ぬまで触れてはいけない心の傷跡なのだ。少しでも触れてしまうと、血が止まらないと思う。

私はなぜ「中国」を捨てたのか (WAC BUNKO)

私はなぜ「中国」を捨てたのか (WAC BUNKO)