三鷹の女子高生殺害事件と綿矢りさ

三鷹の女子高生殺害事件も伊豆大島の台風関連の情報ですっかりおとなしくなったなあ。ただ、この事件の被害者の悲惨さを見ていると、チャイドルからトップタレントになったが高校卒業した19歳になった女の子が彼氏にハメ撮り動画が流出させられた綿矢りさの「夢を与える」 を思い出した。以下は「夢を与える」の文章の一部。


誰も夕子を責めなかった。母も、たとえば”おばあちゃんなこんなことになる前に 無くなってよかった、夕子のデビューを誰よりも喜んでいたのにこんな有様になるところを 見せずにすんでよかった”なんて言わなかったし、父も”パパをだましていたな、 パパの知らないところでおまえは子どものくせに、なんてみだらなことをしていたんだ” とは言わなかった。しかし自分をつつむ両親や親戚、事務所の人、恋人、友達の 薄い層の向こうに住む何千万の人々は、あーゆーちゃんとかいう子は外づらだけよくして裏ではなんて穢い世界に繋がっていたんだろうと、嫌悪に顔をゆがめているだろう。もしこれが私に下された罰なのだとしたら、私の犯した罪はなんなのだろうか。男と繋がったことなのか。(中略)

事務所の力のおかげではなく、スキャンダルの内容が過激すぎたとの夕子が未成年だったということでテレビではほとんどの報道が抑えた表現になっていたが、週刊誌の中吊り広告には夕子の名前が躍ったし、事件のことを詳しく知りたい人間はインターネットを使い情報を手に入れた。大ニュースにはならなかったが、夕子の十八歳版のチーズのCMがいつまで経っても流れない理由を日本じゅうが知っていた。


そう、私はたくさんの人を裏切った。たくさんの人の収入を減らした。見舞いに来ないのはもちろん、連絡も通じず、絶縁状態になっているスターチーズCMの関係者たちも、多分私に裏切られたと感じているのだろう。私は自業自得だから被害者だとはいえない。彼らこそ純粋な被害者だ。


母親は身を乗り出した。
「夕子が今回の取材で記者に伝えなければいけないことは二つあるの。一つはあの映像に映っているのが夕子かどうかという疑惑を完全否定すること。インターネットの映像は精巧に合成されているけれど偽物だ、自分にまったく覚えはないと明言しなさい。(中略)」
「どうして嘘をつかなれけばいけないの」
「今回の件を認めてしまうことは、あなたの仕事の息の根を止めることになるからよ。それにあなたを応援してくれていたテレビの向こう側の人たちの夢を壊すことになる。テレビ以外の場所では夕子があんなことをしていたと知ったとき、世間の人々は裏切られた気持ちになるの」
裏切った。私は自分の人生を生きたことで多くの人を裏切ったのだ。母の言葉に夕子は長年見つけられなかった真理を、今見つけた気がした。
夢を与えるとは、他人の夢であり続けることなのだ。だから夢を与える側は夢を見てはいけない。恋をして夢を見た私は初めて人生をむさぼり、テレビの向こう側の人たちと十二年間繋ぎとめてきた信頼の手を離してしまった。一度離したその手は、もう二度と戻ってこないだろう。


記者は励ますように言ったあと、身を乗り出して夕子に近づき、母親に聞こえないように低い小声で言った。
「ところであの映像に映っている男の子って同じ高校の子じゃないよね? あの相手の男の子、ゆーちゃんの彼氏?」
「そういった質問はご遠慮していただきたいです」(中略)
「しかし記事を読む読者はあの事件に少しも触れていないと不自然に思いますよ。やましいことがあると取られかねない。それにここらへんで本人のコメントがないと、噂はひどい方向へ広がる一方ですよ。今出てる一連の週刊誌は、ゆーちゃんのあの行動を、仕事のストレスのはげ口だと報道しているんですけどね」
記者は夕子のベッドの上に持ってきた週刊誌を次々に並べた。「撮られていた”セックス映像”の深層」「ナゾの私生活、h問えるでの乱交」などのけばけばしい見出しが躍っていた。このときをまっていたかのように、映像流出以前と以後では夕子関連の報道が劇的に変化していた。今は通勤の人々が行き交う日本じゅうの電車の中吊りに、キオスクにこの見出しが躍っているのだ。
夢を与える (河出文庫)

夢を与える (河出文庫)