政権幹部辞任による首相退陣圧力
閣僚の連袂辞職で幕引きを(産経新聞 2011年6月18日)
6月15日、衆院財務金融委員会で、野田佳彦財務相(54)からこんな発言が飛び出した。 「もし私が首を差し出してそれがなるなら、私はそうしてもいいと思います」 予算や税制改革の成立と引き換えにクビを差し出した首相や閣僚の例は多い。意気込みはどうかという質問に応えての答弁だから、売り言葉に買い言葉。こう応じたのも無理はない。 だが、この発言が瞬く間に永田町を駆けめぐったのには訳がある。 「自民党沈没の恐れ」 菅直人首相(64)の退陣はもはや日程闘争に過ぎない。民主党3役クラスの大幹部からも退陣を進言されているが、その気配はない。そこで、とうとう辞表を片手に匕(あい)首(くち)を突きつける閣僚が現れた−との見方が流れたからだ。有力閣僚が連(れん)袂(べい)辞職し、後任がなかなか決まらないとなれば、どんなに頑迷な首相も持ちこたえられはしない。 首相退陣を迫るため、閣僚が袂(たもと)を連ねて辞めるのは異例な話ではない。 1974(昭和49)年の参院選後に、当時の田中角栄政権で、三木武夫副総理、福田赳夫蔵相、保利茂行政管理局長官の3人が相次ぎ辞任した。多少の思惑の違いもあったが、倒閣と局面打開を狙ってのことだった。 福田氏の回顧録「回顧九十年」(岩波書店)にはこんなくだりがある。 −−あの参院選挙後に、三木さんの方から(中略)呼び掛けがあって、上野池之端にある梶田屋という旅館で会談した。 三木さんは「この内閣のひさしの下にはいたたまれない。私は(副総理・環境庁長官を)辞める。福田君、どうだ。一緒にやめようじゃないか」と言う。… 福田氏が何日か保留していると、三木氏は一足先に辞表を出してしまう。それ以降、福田氏は慰留の使者を連日差し向けられ、ホテルに缶詰めにされ「(首相の座まで)8合目まで来たのに、もう1度下山して草むらをかき分けてまた登るつもりか」と掻き口説かれる。しかし福田氏も退けない。 福田氏はこうも記す。 −−正直なところ回り道になるなとは思ったけれど(中略)何よりも田中政権があのまま続けば自民党そのものが沈没する恐れがあった。(中略)三木さん、保利さんに続いて私が辞めた後、田中退陣は時間の問題だった… 大震災後の「政治空白」 結局、田中首相が退陣したのはこの政変劇の4カ月後だった。金脈事件を受けてだったが、福田氏が記したように、三木、福田氏ら有力者が連鎖的な辞任が遠因になったことは間違いないだろう。 実は、菅内閣で連袂辞職の火付け役になるのではないかと注目していた閣僚が2人いた。 環境相は、内閣不信任決議が否決された翌3日の記者会見で、首相の退陣時期を「6月いっぱいというのが私の中にはある」と指摘。松本剛明外相も3日、「6、7、8月というのが一つの考え方ではないか」と言及したからだ。 公の席でボスの退陣見通しに言及する以上、その時期がくれば閣僚を辞す覚悟を持ったうえのはずだ。だが、環境相は1週間後、「私的には6月ということがあるけれども、若干のずれ込みはある」とあっさり軌道修正してしまった。 政局全盛期の角福時代と、大震災後と現在を同列に扱うべきではないだろう。だが、首相の退陣時期を固唾を呑(の)んで待っている今こそが「政治空白」期間そのものだ。本当に被災地や日本の将来を考えるなら、閣僚ら民主党有力者が局面打開に動くべきだろう。 |