元リビア革命指導者カダフィー死亡

逃亡生活…最後の頼みは家族と故郷産経新聞 2011年10月22日)


カダフィ大佐の最期の地となったのは一族の故郷、中部シルト。息子たちが行動を共にしていたとみられている。リビア国民に自らを「兄」と呼ばせていたカダフィ氏が最後の頼みとしたのは「家族と故郷」だった。大規模な反政府デモ発生から約8カ月。絶大な権勢をふるった大佐と一族の軌跡をたどった。

「最後の1人になるまで戦う」。大佐の有力後継者と目されていた次男セイフイスラム氏。デモが始まった2月下旬の演説で、政権打倒を目指す動きを強く牽制(けんせい)した。

公金の浪費や外国での豪遊など、傍若無人な振る舞いで知られていた一族の中でも、セイフイスラム氏は人権擁護を訴え、改革の旗手とされていた。

だが、隣国チュニジアでベンアリ政権を崩壊に追い込んだ反政府デモが自国に波及したことへの危機感は強く、セイフイスラム氏は立場を一転させた。首都トリポリの元民兵の一人は「化けの皮がはがれたんだ」と言い放った。

アブドルジャリル法相、クーサ外相、ガネム石油相−。有力側近がカダフィ政権を相次いで離脱する一方、北大西洋条約機構NATO)軍の空爆の支援を受けた反カダフィ派「国民評議会」が北東部から西部に支配地域を拡大させると、一族のあせりは深まった。

4月には、イラクフセイン元大統領の国際弁護団に参加し、国連開発計画(UNDP)親善大使も務めた長女アイシャ氏がトリポリでの集会で、こぶしを振り上げて空爆を非難。7男セイフアラブ氏は4月、トリポリの自宅で空爆を受け死亡した。

前線では、精鋭部隊を率いる6男ハミース氏が戦闘の指揮を執り、家族が一致団結してカダフィ氏を頂点とする体制を守る姿勢を支持者に向けてアピールした。

一族にとり転機となったのは8月23日。NATOの協力を得た反カダフィ派の作戦でトリポリは陥落、大佐は邸宅がある「バーブ・アジジヤ」地区を追われ、一族は逃亡生活に入った。

1986年の米軍空爆の跡がそのまま残る邸宅。「米国への抵抗の象徴」だった場所での一族の豪勢な生活が暴かれた。

サフィヤ夫人と長男ムハンマド氏、5男ハンニバル氏、アイシャ氏は8月29日、隣国アルジェリアに逃亡。3男サーディ氏も9月にニジェールに逃れた。

大佐自身についてはサハラ砂漠の国境地帯での潜伏説も飛び交い、その後の足取りは明確ではない。分かっているのは、セイフイスラム氏と4男ムタシム氏、ハミース氏が父と命運をともにする道を選んだことだ。ムタシム、ハミース両氏は戦闘で死亡、セイフイスラム氏については負傷し入院中と死亡の2つの説がある。(共同)

盛者必衰の理ってか・・・。
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